【京都てらなび】浄土宗総本山 知恩院(ちおんいん)

知恩院

知恩院 の広い境内には数々の文化財建築が並ぶ。

浄土宗の総本山で、詳しくは華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)という。本尊は法然上人像、阿弥陀如来。
1212年入寂した大谷禅房(知恩院勢至堂付近)を起源とする。法然の入寂後、第二世源智により知恩院大谷寺と号し、浄土宗に帰依する徳川家のもと江戸時代に諸堂が大造営された。(寺伝)

知恩院は、浄土宗における京都四箇本山(しかほんざん)のひとつで、他に知恩寺、清浄華院(しょうじょうけいん)、金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)がある。

 

知恩院

浄土宗の総本山 知恩院

 

宗祖法然の入寂と、大谷の禅房

浄土宗の宗祖である法然は1175年、東山吉水(よしみず)に草庵を建て専修念仏の道場とした。しかし1207年、弾圧により讃岐に配流され、1211年に帰洛後は大谷山上の禅房に入り、1212年に同地で入寂する。

法然亡き後、入寂の地に法然の廟が建てられ弟子が守っていたが、1227年に比叡山僧兵によって破却された。法然の亡骸は、弟子たちによって難を逃れ、粟生の地で荼毘に付され弟子たちに分骨された。

弟子による知恩院としての再興

1234年、法然の弟子勢観房源智(せいかんぼうげんち)は四条天皇より寺号を下賜され知恩院として再興している。1431年の火災、1467年応人の乱、1517年の火災、1633年の火災と、焼失の度に再興し現在に至る。徳川家康、秀忠、家光らの外護により、寺地拡大・諸堂の造営・再建が成され、現在の大規模な伽藍が整った。

知恩院の文化財

境内には、国宝の御影堂や三門、重要文化財の勢至堂、集会堂(法然上人御堂)、大方丈、小方丈、経蔵、大鐘楼、唐門など文化財指定建造物が建ち並ぶ。三門・経蔵以外は1633年の火災により焼失しており、1639年までに再建されたものである。

国宝の三門(1621年、徳川秀忠建立)は日本最大級の木造二重門。同じく国宝の御影堂(本堂、1639年再建、2011年より大改修)には、法然上人像(御影)を安置する。重要文化財の勢至堂は、法然の幼名である勢至丸に由来する。庫裏や集會堂(しゅえどう)もまた重文指定である。

国宝の絵巻「紙本著色法然上人絵伝48巻」や仏画「絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図」をはじめ、多数の文化財を蔵している。

知恩院 御影堂

【名称】 知恩院(ちおんいん)
【住所】 東山区林下町400
【電話番号】075-531-2111
【FAX】075-531-0099

1133
1175
1207
1211
1212
1227
1228
1234
1431
1467
1517
1633
1934室戸台風
2011.10
2017

1133

長承2年4月7日、浄土宗の開祖・法然が美作国(岡山県)久米南条稲岡庄に生まれる。幼名は勢至丸。

1175

1175年比叡山を下りた法然が、東山吉水(よしみず)に草庵を建てる。法然は、通称を吉水上人とも呼ばれる。

専修念仏最初の拠点として栄え、浄土真宗開祖の親鸞も入信している。

現在の安養寺(時宗)が吉水草庵跡とされる。

吉水

花洛往古圖 : 京の水(国際日本文化研究センター)

1207

法然は「承元の法難」により、四国・土佐国へ流罪となる。

1211

建暦元年、法然は帰京を赦される。

しかし吉水の旧房は荒廃しており、大谷の禅房(南禅院、勢至堂付近)に移る。

1212

建暦2年1月25日、法然は京都東山大谷で入寂し、大谷の地に葬られた。法然亡き後、弟子たちによって、同地に法然の廟が建てられた。

1227

嘉禄3年6月、比叡山僧兵によって大谷の法然の廟が破却された。

浄土宗の開祖・法然は、1212年(建暦2年)1月25日、京都東山大谷で入寂し、大谷の地に葬られ、同地に法然の廟が建てられ弟子が守っていた。

この破却に先んじて、弟子たちは法然の亡骸を嵯峨に遷した後に西山粟生野で荼毘に付している。

1228

安貞2年、法然の亡骸は西山粟生野(せいざんあおの)にて荼毘に付され弟子たちに分骨された。

金戒光明寺二世の信空は、法然の遺骨を生涯身につけ放さなかったという(信空入寂後、法然廟堂を建て納骨)。証空は火葬した粟生の地に廟を建て、後に粟生光明寺(西山浄土宗)としている。

1234

文暦元年、四条天皇より寺号「知恩院大谷寺」を下賜され、法然の弟子勢観房源智(せいかんぼうげんち)が荒廃した墓所に仏殿、御影堂、総門を再興する。

法然を開山第一世と仰ぐ「知恩院」の名は、遺弟たちが報恩のために行った知恩講による。

1431

永享3年、火災により御影堂など諸堂が焼失。空禅が、勧進と足利義教の援助を得て諸堂を再建する。

1467

応仁元年、応人・文明の乱で諸堂破却される。

この内乱は文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続し、主戦場だった京都全域は壊滅的な被害を受け荒廃した。

戦火で京都の寺社や公家・武家邸の大半が焼失したが、被害は寺社、公家、武家屋敷があった上京に集中し、下京は焼け残った。

1517

永正14年8月に火災により知恩院の諸堂焼失する。影像(法然のお姿)、勅伝などは被害を免れる。

1633

寛永10年1月9日の火災で勢至堂、三門、経蔵以外の知恩院の諸堂が焼失する。

寛永16年(1639年)に諸堂再建される。

徳川家が浄土宗徒であったこと、知恩院25世超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)が松平氏第5代長親の弟であることなどから、3代将軍徳川家光のもとで速やかな再建となった。

1934室戸台風

文化財被害1934

室戸台風について

1934 年 9 月 21 日 5 時頃に高知県上陸、8時10分から9時にかけて京都市内を通過(進路は南西部から東部)。京都府測候
所(現京都市中京区西ノ京笠殿町)で 957.8hPa の最低気圧と、秒速 42.1m の最大瞬間風速を観測(8 時 30 分)した。

台風によって市内の多くの建物が倒壊、山地では倒木が発生し翌年の大水害の遠因となった。(後述)

京都市内の被災寺院寺社数

被害のあった区は、当時の区分で上京区・左京区・中京区・下京区・東山区・伏見区・右京区に集中している。
「京都市風害誌」(京都市、1935 年)によると1,126もの社寺が被害にあい、寺院の被害は 952 寺であった。

被害の内容

建物は損壊は全壊から破損まで大小様々であり、塀や灯籠の倒壊、境内樹木の倒木などもあった。「京都の治水と昭和の大水害」(文理閣 2011年)」によると、寺院では西本願寺(下京区)、知恩院や建仁寺(東山区)、醍醐寺三宝院(伏見区)など27寺院が倒壊したという。

翌年(1935年)の大水害の寺院被害

台風により周辺山地でも倒木が多数発生し、それが翌年6月の豪雨で河川に流出し大水害(鴨川水害)を引き起こした。この水害による寺院の被害数は103寺院、被害額は現在の価値で約4200万円(戦前基準指数換算2016:1934)に及んだ。

1934室戸台風

2011.10

【 知恩院 】東日本大震災発生をうけ、当初予定していた日程を半年延期して10月2日から元祖法然上人八百年大遠忌法要が奉修された。

概要
  • 平成23年春、天皇陛下より新たに「法爾(ほうに)大師」の徽号を加諡
  • 東日本大震災発生で半年延期された
  • 10月2日~10月9日は、御影堂と御廟の2箇所で古式法要
  • 10月6日は中日庭儀式(ちゅうにち・ていぎしき)では集会堂から御影堂まで約1500人の行列の練り歩き
  • 東日本大震災7カ月となる10月11日に御影堂で追悼法要
  • 10月13日~16日は、御影堂で御尊像を内陣中央に安置して念仏会法要
  • 10月17日~22日は、御影堂で浄宗会(じょうしゅうかい)法要。11の浄宗会各総大本山が代わる代わる法要。

2017

文化財被害2017

6月20日の大雨による被害

文化財被害 はなかったものの、以下の被害が報告された。

【一部損壊】
(左京区)無鄰菴(南禅寺草川町)1件 土塀の一部崩れ,窓枠の外れ及び建物内への雨水の流入

10月21日の台風21号による被害

【重文】
  • 二条城 本丸御殿御書院 扉破損
    二之丸御殿台所 北妻飾金具落下
    二之丸土蔵(米蔵)漆喰はがれ
  • 大徳寺 庫裏 瓦が落下
  • 北野天満宮 廻廊 檜皮屋根損傷
  • 知恩院 小庫裏 瓦の落下
  • 仁和寺 五重塔 瓦の落下

【名勝】

  • 雙ケ丘 こもれびの広場 倒木3本
  • 法金剛院青女滝 倒木
  • 大沢池附名古曽滝跡 倒木
【国指定史跡】

  • 二条城 清流園 倒木2本
    梅林 倒木2本
    桜の園 倒木2本
    二之丸庭園西南土塀西軒 丸瓦外れ
  • 賀茂別雷神社 境内 倒木
  • 北野天満宮 境内 御土居 倒木
  • 御土居 倒木
  • 嵐山 倒木(竹)
  • 賀茂御祖神社 境内 倒木
  • 仁和寺 御所後 倒木による土塀損傷
  • 大覚寺 御所後 倒木

【指定無し】

  • 大将軍神社 倒木により祠が全壊
 
参考)京都市災害対策本部
6/20大雨
http://www.bousai-kyoto-city.jp/bousai/dat/disaster/H290620saigai.pdf
台風21号関連
http://www.bousai-kyoto-city.jp/bousai/dat/disaster/H291021saigai(7).pdf
2017