【京都てらなび】日蓮宗本山 叡昌山 本法寺(ほんぽうじ)

 本法寺 十の庭

本法寺 は庭園でも有名。

日蓮宗本山で山号は叡昌山(えいしょうざん)、本尊は三宝尊。開創については諸説あり、日親が東洞院綾小路に造った「弘通所」(ぐずうしょ、1436年)が始まりとされる。1440年、日親は足利幕府と対立し投獄され破却されるが、投獄中に本阿弥本光(清信、本阿弥光悦の曽祖父、六代目)の帰依を受ける(以後、本阿弥家の菩提寺と伝える)。

寺は康正年間(1455~1457年)に四条高倉に再建されるも、再び破却に遭い(1460年)更に三条万里小路に移った。1536年には法難に遭い一時都を追われた後に一条戻橋付近で再興した。1587年、豊臣秀吉の命によって現在地へ移転した際は、芸術家である本阿弥光悦とその父光二の全面的な支援を得て、伽藍が整備された。(寺伝)

開山である日親は室町時代に活躍した日蓮宗僧侶である。足利義教に法華経への帰依を求めて投獄されるなど、幕府を恐れない不屈の布教活動で知られる。本法寺もまた度重なる破却(1440、1460年)や天文の法難(1536年)、天明の大火(1788年)からの再興を経て現在の諸堂を有している。

 

巴の庭

巴の庭 十本の切石で囲われた蓮池

本法寺と本阿弥家(ほんあみけ)

本法寺は本阿弥家の菩提寺である。養子(五代目妙寿の娘の次男という説も)であった本阿弥光二は、本阿弥光刹が八代目を継ぐにあたって独立して別家をおこした。
この光二の息子、本阿弥光悦は総合芸術家として多くの美術作品をこの本法寺に残している。なかでも「花唐草文螺鈿経箱」(重文)や、「如説修行抄」「法華題目抄」(いづれも重文)などの書、「巴の庭」(国指定名勝)の作庭などが、彼の幅広い分野での才能を現在に伝えている。
光悦の死後、その屋敷は日蓮宗大虚山光悦寺(1656年)となった。

本阿弥家は日蓮宗との縁が深く、本阿弥光徳(父は光刹、通称は三郎兵衛、九代目)は龍江山妙法寺(東京台東区谷中4)の開基(1607年)でもある。江戸幕府に仕えた刀剣鑑定としての本阿弥家の檀越寺が妙法寺である。

長谷川等伯の佛涅槃図

大徳寺の壁画も描いた長谷川等伯も、供養の為に「佛涅槃図」(重文)を本法寺に残しており、これは京都三大涅槃図のひとつに数えられる大作である。上洛の際に、郷里の菩提寺・日蓮宗本延寺の本山である本法寺を頼り寄宿していたことを縁として数々の作品を残している。等伯は、当時随一の狩野派に肩を並べる絵師として知られ、千利休や本法寺10世日通らと親交があったという。

現在、天明の大火をも免れた美術品の数々は境内の宝物館(涅槃会館)で一般公開(有料)されている。

本法寺 唐門

【名称】 本法寺(ほんぽうじ)
【住所】 上京区小川通寺ノ内上ル本法寺前町617番地
【電話番号】075-441-7997
【FAX】075-441-8100