【京都てらなび】浄土真宗佛光寺派 本山佛光寺(ぶっこうじ)

佛光寺 阿弥陀堂

真宗佛光寺派の本山で本尊は阿弥陀如来。越後流罪から赦免(1212年)された親鸞が山科の地に草庵したのを元とする。当初は「興隆正法寺」(略して興正寺とも)と号したという。元応二年(1320年)、中興了源(りょうげん)により今比叡汁谷(現・京都国立博物館あたり)に寺基を移し「佛光寺」と改めた後、天正十四年(1586年)豊臣秀吉の懇請により寺基を五条坊門(現在地)に移し今に至る。(寺伝)

浄土真宗の宗祖である親鸞は、専修念仏を禁止され越後へ流罪の身となる。法然も土佐に流罪となるが、ともに念仏布教の意志は固いものであった。

赦免後の親鸞の行方は諸説あるものの、関東を中心に浄土真宗の教えが広がっていく中、中興の祖である了源が仏教の盛んだった京都東山に「興正寺」の寺基を移し、教化活動の拠点とした。寺基を移すにあたっては、後醍醐天皇が光の差し込む夢を見、夢で示された場所から興正寺の盗まれた仏像が出てきたことに由来して、「佛光寺」の寺号を賜ったとする。

1320年、京都東山に寺基を移したことで、佛光寺は多くの参詣者を得て隆盛を極めた。同時期に覚如が親鸞の廟堂である「大谷廟堂」を寺院化(1321年)した(大谷)本願寺をもしのぐものであった。しかしながら、

汁谷 佛光寺

汁谷 佛光寺(京師地圖 : 全 : 中昔)
国際日本文化研究センター
当時は民衆に一向宗と混同されていた。

浄土真宗を含む専修念仏宗派の隆盛は、叡山からの弾圧を強める結果となり、1465年に本願寺は叡山の僧徒により破却される。一方、東山の妙法院門跡(天台宗)と親しかった佛光寺は破壊を免れた。しかし応人の乱(1467年)により焼失して一時期、大阪摂津に寺を移した。

戦乱からの復興にあたり京都の浄土真宗寺院の多くが本願寺派となる中で、1481年以降の佛光寺は知恩院から呼び寄せた経誉が中心となって再建を果たす。天正14年(1586年)豊臣秀吉の命により現在地(五条坊門の龍臥城)に移されて今に至る。

京大絵図(1696)

佛光寺通り「京大絵図」(1696)
国際日本文化研究センター

境内には大師堂と阿弥陀堂が並びたつ中、和カフェ「d食堂」や雑貨店があり多くの市民が憩う親しみ深い寺院である。また春の桜、秋のイチョウの評判も名高い。

和カフェ「d食堂」

和カフェ「d食堂」

佛光寺

【名称】 佛光寺(ぶっこうじ)
【住所】 下京区新開町397
【電話番号】075-341-3321 
【FAX】075-341-3320