寺院火災の歴史 京都市内の主な文化財火災

京都の 寺院火災の歴史 を振り返ってみると、年間平均2件(昭和23年から平成28年までの68年間で156件)もの貴重な文化財が被害を受けていることがわかります。

経済力のある大寺院でさえ再建に複数年を要すことは、被災寺院の復旧が困難であり、防火対策や火災保険への加入の重要性を教えてくれるものです。

参考資料「京都消防歴史資料館」「京都市内の主な文化財火災(年表)京都市消防局」ともに京都市消防局HP

【伏見】1930年12月21日
教王護国寺(東寺)の伽藍堂が全焼。

平安時代初期の作で貴重な文化財である千手観音像を焼失。

【伏見】1932年5月17日
醍醐寺の五大堂(国宝)が全焼。

1932年(昭和7年、旧暦の4月3日)、護摩の火が屋根に燃え移り火災となった。

1940年(昭和15年)に五大堂は再建された。

【伏見】1934年4月17日
金戒光明寺の大本堂(大方丈)、御影堂が全焼。

1934年(昭和9年)、大本堂から出火し,堂宇のほとんど及び多くの宝物を焼失した。

1944年(昭和19年)に大本堂と御影堂が再建された。

【東山】1936年5月10日以前 
蓮華王院の三十三軒堂(国宝)床下を焼損。

1936年(昭和11年) 、放火により出火。火災報知機が作動して被害を未然に防いだ。

1933年(昭和8年)に国宝として初めて自動火災報知機が設置されていた。
参考~能美防災株式会社への感謝状(国立科学博物館)

【伏見】1939年8月29日
醍醐寺の経蔵(国宝)が全焼。

1939年(昭和14年)、 上醍醐の山火事が延焼して経蔵が焼失。醍醐寺客殿(国宝の清瀧宮本殿)、西国三十三所第11番札所の准胝堂も焼失した。

清瀧宮本殿は1957年(昭和32年)に再建。
准胝堂は1968年(昭和43年)再建するも、2008年に落雷で焼失(2018年現在、再建を目指している)。 経蔵は、いまだ再建されていない。

【東山】1947年5月17日
智積院の宸殿が全焼し、国宝の壁画16面を焼失。

1947年(昭和22年)5月17日午前八時ごろ、宸殿(しんでん)より出火。本堂(客殿、方丈、講堂とも)や宸殿を焼失、大書院を半焼、600坪を焼き3時間後に鎮火した。

宸殿にあった国宝の壁画16面を焼失したが、長谷川等伯の襖絵などは運び出され無事だった。

この火事で焼失した国宝の壁画は以下の通り。

  • 柳及び芦図(床間・違棚壁貼付)6面、枇杷図(襖)4面(宸殿東の間)
  • 竹図(襖)4面、檜及び柏図(壁貼付)2面(宸殿西の間)

 

1951年(昭和26年)、四条寺町の大雲院から本堂を移築。
1958年(昭和33年)、宸殿再建。
1990年(平成2年)、講堂再建に向け本堂を隣地に再移築(現在の明王殿)。
1995年(平成7年)、火災後48年を経て講堂再建。

【市外、奈良】1949年1月26日
奈良県法隆寺金堂(国宝)が全焼し、重文の壁画が焼損した。

1949年(昭和24年)1月26日午前七時ごろ、金堂より出火。同8時に全焼した。

金堂の屋根は終戦直前に解体、内陣と壁のみの状態だった。
当時、四壁十二面の壁画の模写作業中だった為、絵具を溶かすヒーター、暖房の電気座布団などの使用による電熱・漏電を指摘されたが、失火原因は不明。

この火災で仏教壁画(7世紀、国重要文化財)が焼損した。
これを契機に文化財保護法(1950年)が制定、毎年1月26日文化財防火デー(1955年より)と定めている。

解体修理中だった為、初層の裳階(もこし)部分と上層のすべて、および堂内の諸仏は難をまぬがれた。

5年後に金堂の修理が完了し、現在の壁面はほとんどが模写である。

1993年(平成5年)法隆寺が世界文化遺産登録(世界最古の木造建築物)。
1994年(平成6年)11月1日、焼損壁面が45年ぶりに一般公開。

【北区】1950年7月2日
鹿苑寺(金閣寺)の金閣(国宝)が放火で全焼

1950年(昭和25年)7月2日午前三時ごろ、放火により出火。

山門が狭いため大型ポンプ車は境内に侵入できず、小型消防車が池から水を吸い上げ放水。火は一時間近く燃え続け、国宝の舎利殿が一、ニ層の骨格だけを残し全焼。 火災報知器の故障が発見を遅らせたとされる。
国宝足利義満座像など仏像五体も焼失した。

5年後に再建された。

【上京区】1954年8月16日
京都御所内の小御所が打ち上げ花火で全焼

南へ約2Km離れた鴨川河川敷で、新聞社主催の花火大会が行われ、風に流された落下傘型打上げ花火の残火が檜皮葺屋根に落下し出火、全焼した。

4年後の1958年、忠実に再建された。

【中京区】1962年7月25日
壬生寺本堂が放火で全焼し、地蔵菩薩半跏像が焼失した。

 1962(昭和37)年7月25日午前二時ごろ、放火により本堂から出火。 木造の本堂が全焼し地蔵菩薩半跏像の他、重要文化財の仏像五体も焼失した。 当時の京都新聞は「日照り続きで乾燥していたため、火の回りが早く約三十分で完全に焼け落ちた」と伝えている。

8年後、本山の唐招提寺から地蔵菩薩立像を移し、鉄筋建て本堂の落慶法要が営まれた。

【右京区】1962年9月1日
妙心寺の鐘楼(重文)が放火で焼失

重要文化財に指定され,徳川三代将軍家光の乳母春日局が寄進した浴鐘楼が放火により焼失。 釣られていた梵鐘は、法堂に移された。

現在の鐘楼は京都の東山仁王門の信行寺にあった鐘楼を譲り受け浴室の隣に移築したもの。

京都てらなび~妙心寺

【右京区】1966年5月27日
妙心寺の塔頭・霊雲院(重文)が放火され、ふすま絵三面などが焼失

放火により書院の一部を焼いた霊雲院には、重文の狩野元信筆「四季花鳥図」「月夜山水図」など狩野派による障壁画などが多数あったが、焼失した襖絵は無指定のものだった。

【北区】1966年7月20日
大徳寺の方丈(国宝)が放火され、重文の障壁画が焼失

参拝客が発見した時には、火が天井や壁に燃え移っていた。焼けた方丈には重要文化財のふすま絵や障壁画80余点があり、狩野探幽筆「猿曳図」、鶴沢探索筆「東胤映雪図」など数点が被害を受けた。

【東山区】1973年3月27日
火の不始末により、方広寺の大仏殿が全焼、大仏が焼失

午後十一時頃、大仏殿西側受付室で使用されていた練炭火鉢の不始末が原因で失火。戸締りの際は練炭は取り出していたが、火鉢の下に敷いていたかまぼこ板が余熱により炭化し燃え出したとされる。

自動火災報知設備が設置されておらず、手動の設備も故障していた。30分程で鎮火するまでに大仏殿にあった弁天、大師、不動、不動の前立など五体の仏像は無事に運び出されたが、大仏は焼失した。

【伏見区】1975年8月5日
与杼(よど)神社本殿(重文)が花火の火で焼失

中学生の花火遊びにより、檜皮葺屋根に着火し、本殿等を焼失した。

本殿は5年後に再建された。

【東山区】1975年10月7日
清水寺の本堂(国宝)の柱や床の一部を放火で焼いた。

灯油をまいて放火されたものの、昭和23年より活動している清水寺警備団の存在と活動が小火程度に被害を抑えるのに貢献したとされる。

【左京区】1976年1月6日
平安神宮拝殿など9棟が放火により全焼

京都市消防局は最高レベルの「全出動」を発令し必死の消火活動したが、内拝殿や本殿ほか9棟を焼失。なんとか太極殿への延焼は食い止めた。

文化財として指定されておらず、火災報知器の設置義務の対象外だったことで発見が遅れた。

指定文化財ではなかっため国の補助金は見込めなかったものの、全国から募金による支援を受けて3年後に再建。

【東山区】1987年11月20日
建仁寺の塔頭・両足院で失火、書院は全焼し庫裏の一部を焼く。

まき風呂の煙突から失火し火災となった。

午前一時頃、庫裏付近から出火した。庫裏が半焼、書院は全焼するなど2棟300平米を焼き、二時四十分頃に鎮火した。

絵画等の焼失は免れたが、名勝指定の庭園などが大きな損害を受けた。

【右京区ほか】1993年4月25日
三千院・仁和寺・青蓮院と伏見区の田中神社で同時放火

放火により仁和寺で国宝の金堂の一部を焼くなどの被害。
左京区の三千院では往生極楽院(重文)の一部が焼失。
東山区の青蓮院では茶室好文亭が焼失した。

【左京区】2000年5月9日
放火により寂光院本堂が全焼。重文1体を含む3体が焼損

火災報知器が設置されており、午前二時四十分ごろ消防に連絡が入り、消防車21台が出動して約1時間後に鎮火した。灯油をまかれて放火された。

重要文化財である木造地蔵菩薩立像が焼損したが、本尊の中に納められていた「像内納入品(小木像の地蔵菩薩な3000体など)」は無事だった。

半年後には仮堂が完成し、拝観を再開した。
10年後、色鮮やかに復元した「六万体地蔵尊」を安置。焼損した本尊は修理ののち、収蔵庫に納められている。

「2000京都10大ニュース~寂光院本堂放火される」京都新聞

 

寺院火災の歴史 ~みんなで守ろう文化財

毎年1月26日は「文化財防火デー」